「ノモンハン事件」とは1939年5月から9月にかけて、満州国とモンゴル人民共和国の間の国境線をめぐって発生した日ソ両軍の国境紛争事件である。日本側に(後の情報開示ではソ連側にも)多数の死傷者を出したことで知られるが、現地の軍人が統帥権をもつ天皇の「不拡大」の意向を無視して暴走する。日本の高級将校は数万人の死傷者を出してもなお自らの非を認めなかった。日本軍を圧倒したソ連第一集団軍司令官ジューコフはスターリンの問いに対して、「日本軍の下士官兵は頑強で勇敢であり、青年将校は狂信的な頑強さで戦うが、高級将校は無能である」と評価していた。
「ノモンハン事件」は決して日ソの局地戦ではなく、当時の国際情勢を強く反映したものだった。1939年5月、に独伊は軍事同盟を結ぶ。ソ連を敵視する日本陸軍は日独伊三国軍事同盟を主張していたが、海軍は日独で軍事同盟を結ぶことは、全く勝算のない米英戦に巻き込まれるとして反対していた。スターリンは日独伊による軍事同盟で挟撃される可能性を恐れていた。そこで関東軍を完膚無きまでに叩き、対ソ戦の意欲を喪失させ、独・日への二正面作戦を避けることを狙った。
ノモンハンで戦闘が続いている間に、欧州では大きな動きがあった。
8月に入ってヒトラーはスターリンに不可侵条約を結ぶ用意があると伝え、8月23日に独ソ不可侵条約が締結される。大島駐独大使に対して8月21日深夜に独ソ不可侵条約締結が伝えられ、日本にも伝達される。「欧州の天地は複雑怪奇なる新情勢」という迷文句で平沼内閣総辞職。欧州の政治情勢が急展開する一方、ソ連軍は8月21日から総攻撃を開始する。圧倒的に優勢なソ連軍により関東軍は壊滅的打撃を受け、8月29日には現地で撤退命令が出され、翌8月30日には戦闘終結の天皇命令が出される。9月1日にはドイツのポーランド侵攻、9月17日にはソ連も東からポーランド侵攻し、ポーランド分割が完了する。
我が国は各国の駆け引きに翻弄されるだけで、対米宣戦という最悪の選択をすることになる。ジューコフの言うように「高級将校が無能」であったからである。高級官僚も政治家もそうであった。70年経った今でも、それは変わっていないように思われる。